2009年8月26日 中村京蔵舞踊の夕べ 「鐘の岬」「古道成寺」
※クリックすると大きくなります
   この度は「道成寺もの」に取り組みました。二演目とも能舞台に相応しいものを選びました。

 まず荻江の「鐘の岬」は、二世藤間勘祖師振付により六世中村歌右衛門師が1970年10月歌舞伎座で初演し、好評を博したもので、爾来、宗家藤間流の演目として定着し、師雀右衛門も度々勤められています。長唄の「娘道成寺」を凝縮した幽艶な曲ですが、なかなかの難物でした。

 また吉村流の「古道成寺」は、雄輝師が1957年に作舞、初演したものですが、「語り道成寺」と云われるドラマチックな内容に合わせて、演劇的な構成やパントマイムなどを用いたり、また京劇の技法を取り入れるなど、従来の地唄舞にはない斬新な振付で、今では吉村流の代表曲です。こちらも大変な難物で、四苦八苦致しました。

 しかし、奥許しの二演目に挑戦させて頂けた喜びをかみ締めております。今後も機会がありましたら、再演を重ねたいと存じます。なお、「古道成寺」には、花ノ本 海さんのご出演を賜りました。父君の花ノ本 寿師とは、故武智鉄二先生や師雀右衛門とのご縁で知遇を得、海さんともいつか舞台をご一緒したいと思っておりました。このような機会が実現し望外の喜びです!


【鐘の岬】
※写真をクリックすると大きくなります
鐘に恨みは数々ござる
後夜の鐘をつく時は
是先減法と響くなり
真如の月を眺めあかさん
言わず語らぬ我が心
みだれし髪の乱るるも
アゝどうでも女子は悪性もの
まり唄(手事)
恋の分里かぞえかぞえりゃ
思いそめたが縁じゃえ
幕切れの引っ込み
思いを残して揚幕へ消える

地唄 古道成寺】
※写真をクリックすると大きくなります
昔々この所にまなごの庄司という者あり
またその頃よりも熊野へ通る山伏あり
庄司がもとを宿を定め年月送る
あれなる客僧こそ
汝がつまよとたわむれしをば
おさな心に誠と思い
明し暮らしておわします
いつまでかくておき給う
早く迎えて給われと
よれつもつれつ常陸帯
同じく
せめて一夜は寝て語ろ
後程忍び申すべし
夜半にまぎれて逃げて行く
のうのういかに御僧よ
何国までもおっかけゆかん
折りふし日高川の水かさまさりて、
わたるべきようもあらざれば
土をうがって尋ねける
遂に山伏とりおわんぬ
なんぼう恐ろしい物語り

【他
※写真をクリックすると大きくなります
現・藤間勘祖師より厳しくご指導を賜りました
今回の「鐘の岬」の衣裳は師雀右衛門が「娘道成寺」のただ頼めで使用する、ちりめん紫地、枝垂れ桜文様の衣裳を着用させていただきました
振り下げ帯は白の塩瀬地に狂言丸の文様、道成寺の定番です
あたまは中高の文金、銀の前挿、銀・トキ(淡江)、赤の両天、藤色と銀のほたる打ちの組み紐
髷(まげ)と髱(たぼ)のバランスを確認しています
鬢(びん)と髷と髱の絶妙なバランス
床山の細野さん(右はじ)の傑作です!
「鐘の岬」の扇
紅入り金地に櫻と慢幕に火焔太鼓の図柄で仕舞扇仕立てです。いつもお世話になっている銀座「寿扇」さんで誂えました。
吉村古ゆうさんには懇切なるご指導をいただきました。花ノ本海さんも力強い助演をいただきました。後方右はいつも後見で助力いただく若柳吉優亮さんです。左は芝雀さんのお弟子の京由(きょうゆき)です。
富田清邦先生のお力なくしては、今回の「古道成寺」は上演が叶いませんでした。改めて御礼申し上げます。左はご門弟の北村珠邦さんです。
衣裳の松本さん(右)と内藤さんです。
素晴らしい白地織物の着付けと、朱地織物の半幅帯を提供して下さいました。
その帯の裏は白と銀のうろこ文様です。それを解かねばならぬ海さんが真剣なまなざしで見つめています。
その帯のほどいた具合を古ゆうさんにダメ出ししていただいています
結び上がった帯
海さんが解くシュミレーションをもう一度しています。
このあたまは、振り分け(前髪)二段、下げ髪を輪にして織物のキレ(裂)が掛かっています。この絶妙なシルエットも細野さんの傑作!
合わせ鏡で下げ髪の具合を確認
この度も多くの皆々様のご来場を賜りました。ありがとうございました。
たくさんのお花をいただきありがとうございました。

【演目】
【六百五十年目の鐘供養−ご挨拶に変えて−】
 洛北山岩倉の妙満寺には、紀州天音山道成寺の釣鐘が安置されている、なぜか?

 道成寺は、大宝元年(西暦七〇一年)に、第四二代文武天皇の勅願で建立された。それから二三〇年後の廷長六年(九二八年)に例の安珍清姫事件!が起こり釣鐘は焼失する。その後、正平一四年(一三五九年)に、日高郡矢田庄の領主逸見万寿丸源清重という南朝方の豪族が、道成寺に二代目の釣鐘を寄進し、旧暦三月一一日に鐘供養が営まれた。しかし、宿執の報いからか、鳴る鐘の音に変調を来たし、近隣に悪病災厄が相次いで起こった為、折角再建された二代目の釣鐘も山林に打ち捨てられたという。さらに、二〇〇年余りを経た天正一三年(一五八五年)、豊臣秀吉は大軍を率いて紀州征伐を敢行し、配下の武将に略奪を命じた。その中のひとり仙石権兵衛秀久がこの釣鐘を戦利品として京都に持ち帰り、妙満寺に納めたという。道成寺二代目の釣鐘はそのような数奇な運命を辿り、そして本年、平成二一年は鋳造されてから六五〇年の節目の年を迎え、その記念法要が去る五月一七日に妙満寺にて盛大に催された。

 我が親友の宮西芳緒氏は取材旅行の猛者で、数多の旧跡を踏破し、ことに清姫の足跡を追って、真砂の清姫の里から道成寺を辿った折は、実にフルマラソンにも匹敵する距離だったらしく、「清姫の執念を実感した!」そうである。その宮西氏から「記念の年だから、道成寺ものを取り上げたのでしょう?」と聞かれた私は、「?? いえ、偶然です」と答えて、呆れられてしまった。

 不勉強・不熱心・不心得者の私は宮西氏から懇々と諭され、五月の末に寸暇を得たので、おっとり刀で道成寺と妙満寺へ向った。あいにく当日は、時ならぬ大型低気圧の接近で紀伊半島及び関東地方は暴風雨との予報で、案の定、電車は遅れたが、JRきのくに線「御彷」駅に降り立った時は雨も上がり、道成寺の山門に到着した折は日が差した!私は日頃の行いに感謝した(笑)上村吉弥さんのご紹介で、道成寺院代の小野俊成師とも知遇を得られ、手厚く公演成功祈願も執り行われたが、宝仏殿の現本尊千手観音菩薩の前に坐り、電気を消されて四〇分近くも対座した時は、千手観音様から「お前は修業が足りない!足りない!」と叱られたような気がして、冷や汗の掻き通しで、そうは問屋が卸さないことを身をもって実感した。恥じ入るばかりである。翌日は、洛北妙満寺へ向い、二代目の釣鐘と対面した。
 ともかく、懸命に勤めるしかない!
 六五〇年目の鐘供養の末席に、私も連なることが出来たことを大きな喜びとしたい。

- 「中村京蔵舞踊の夕べ」パンフレットより抜粋 -


(C)Copyright 2001-2009 NAKAMURA KYOZO All Rights Reserved.
このページに掲載されている写真は著作権情報を確認できるようになっています。